喪中はがきと父のこと

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先日、喪中はがきを投函した。

父が68歳で急死したのは今年の1月3日。

死因は急性心不全。

もうあれからそろそろ1年なんだ・・・と思うと、長かったような短かったような。

今でも、父と同年代の男性を見かけると、なんとも言えない複雑な気持ちになる。

あまりに急だったため、当初は父の死が受け入れがたく、医者に止められてもたばこを止めなかったり、杖を付きながら一生懸命お散歩している老人たちを窓から眺めては、「俺はあんな風になってまで歩きたくないな・・・」などとつぶやいて、「健康で長生きする努力」をしていなかった父に対して、悲しみよりも怒りがこみ上げてきたことが何度もあった。

その怒りが落ち着くと、今度は、父の人生はどんなだったのかな、とふと考えるようになった。

幸せなものだったのか、どうか。

今更、残された家族がどうのこうの考えたって仕方がないことだとわかっていても。。。

父は、55歳で会社を辞めた。

父の会社は60歳定年だったものの、55歳で役職定年の制度があったらしく、55歳~60歳までの5年間は、仕事を続けることはできても、今まで「部下」だった「上司」のもとで働くことになる。

それを現実として受け入れて働き続ける人が多い中、プライドが高かった父はそれを拒否。

後輩に道を譲るべく、あっさりと55歳で退職を決めた。

当時、親元を離れてひとりで生活していた私は、自分自身が社会人になり立ての頃で、自分のことだけで精一杯。

あまりに若く、無知で、家族のことを考える余裕もなく、父の退職話を聞いても、そういう年になったのかと、それまで数十年間家族のために仕事を続けてくれた父に、退職の日に労う言葉ひとつ掛けることがなかったことが今でも悔やまれる。

思い出されるのが、私が25歳の頃、大学卒業と同時に初めて働き始めた会社で、理想と現実のギャップ、自分の不甲斐なさに悩み、会社を辞めたいと父に相談した時のこと。

怒られると思っていた私に、父が言った言葉は、「自分がその会社に必要ない、会社のためにできることがないと思うなら辞めなさい。いられる方が迷惑だ」。

苦労して東京の大学に行かせてもらって、いわゆる大手企業に就職したのに、私の「甘さ」を怒るわけでもなく、札幌の実家に戻ることをあっさりと認めてくれたことは驚きだったのだけれど、思い起こせば、父自身が、数年後に会社を辞めることを決意していた時期と重なり、多分、父が私に言った言葉は、父自身が早期退職を決意し、自分を納得させるための言葉だったのだと今は思う。

3人の娘がそれぞれ独立して家族を持ったあと、母と2人だけの生活を始めた父の唯一の希望は、母よりも一日でも先に死ぬこと。

去年、姉が結婚してからは、「オレはもういつ死んでも何も後悔することがない」と口癖のように言っていたという父。

去年、故郷を訪ねて会った高校時代の友人には、母と3人の娘のことを自慢していたという父。

誰に迷惑をかけることもなく、自分の布団の中で就寝中に静かに逝ってしまった父。

プライドが人一倍高かった父の、父らしい最期だったと思う。

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コメント

  1. お父様は幸せな方ですね。いつまでもアナタの心の中に居続けられて。私も今日は亡き父の事を思い出して、少し泣いてしまいました。

  2. こうして思い出してやり、感謝のきもちを持っていることが、故人への一番の供養だとおもいますよ。
    お母様はその後お元気ですか?

  3. 若くして亡くなった友達の思い出話話をしていた時「私たちは生かされている。だから亡くなった人を忘れることなく、亡くなってしまった人たちに恥ずかしくない生き方をしなくちゃね」とある人に言われました。決して宗教にはまっている人ではないのです。
    私たちは、生かされている。
    なのに、人間ドックで腫瘍マーカーの一つが高かったと落ち込み、大騒ぎする私。
    eriponさんの思いを読んで、恥ずかしくなりました。

  4. 早いですね。一年たってしまいますね。
    eri-ponさんのブログ拝見して私も父の事を思い出しました。
    亡くなった時には、背格好の似た方を見かけるとそれだけで思い出し悲しくなったのに・・・と思い出します。
    さすがに今では母の元へ出かけお仏壇に手を合わせるとホッとするだけで涙が出ることもなくなりました。
    時間が経つって嬉しいのか?悲しいのか?分からないですね。
    時折思い出して差し上げるのがキッと供養になるのでしょうね。

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