記憶の総量

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最近、本当に記憶力が衰えたと思う。

今日も取引先の人と挨拶をし、名刺交換をした時に、「以前の部署で一緒にお仕事させていただきましたよね」と言われた。

瞬時に自分の記憶をたどってみたけれど、失礼極まりないことに、まったく思い出せなかった。

過去に担当したことのある仕事のこと、その時一緒に仕事をしていた人のこと・・・・、とにかく忘れてる。

ちょっと言われて、「あぁ、あの時の!」とすぐに思い出せるならまだしも(口ではそういいながら)、「そうでしたっけ?!」状態で(心の中では)、子供の頃から多少なりとも、記憶力には自信があっただけに、われながら非常に悔しい。

「歳のせい・・・」と諦めそうになるけれど、専門家によると(←詳細はコチラ)、

「脳は、100年経ってもほとんど衰えないタフな臓器」で、「生命維持に必要なら海馬は情報を記憶」しているとのこと。

「記憶を司る脳の海馬には、必要な情報を取捨選択してふるいにかける機能があります。海馬が『この情報は必要』と判断する基準は、生命維持に必要かどうか、これだけ。動物は『ここで死ぬ思いをした』、『こうしたらエサが獲れた』など生命維持に必要なことから覚えていきます。そういうときは集中しているし、対象に興味が向かって感情が動いているでしょう? もの事を覚えるためには興味を持ってワクワクするなど、感情を伴わせることが必要なのです」、とある。

大いに納得。

確かに、人間はともかく、バブーを見ていると良く分かる。

私が一度でもバブーにあげたことのある食べ物(例えば、枝豆)は、その匂いを嗅いだだけで、必ず私の近くに寄って来る。

お友達わんこの飼い主さんんも、バブーに一度でも「おやつ」をくれたことのある人には、シッポをふりふり喜んでアピールしに行く。

それと同じで、私が物事を忘れてしまうのは、歳を取ったからじゃない。

その情報が自分にとって、「生命維持に必要ない」と、脳が判断したからなのだ。

だがしかし、この事を知って、政治家が大好きな言葉、「記憶にございません」はどう捉えたららいいのか、とふと悩む。

どんな場面にせよ、自分が責任のある立場にいて、何かを問われた時に、「記憶にない」、「覚えていない」というのは、どこまで認められるのか。

「記憶にない」なんて、ありえない、と思っていたのは過去の私。

今は・・・、少しずつ・・・、なんとなくわかる。

人によっては、当然覚えているだろうと思われることも、「生命維持に必要かどうか」、という「本能」の判断基準で、記憶に残っていないこともあり得るということが。

逆にはっきりと記憶に残っていたら、身を滅ぼすことになりかねない、こともある。

「忘れる」ことができるというのは、人間が生きていくうえで、時に幸せなことであり、生命維持のために必要なことになり得る。

「いい事」はいつまでも覚えていたいけれど、「嫌なこと」は一刻も早く忘れたい。

人間というのは、つくづく都合のいい生き物なのだと思う。

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